柔整白書

柔道整復の歴史的経緯 柔道整復師法制度の推移 柔道整復の現状

第1節 柔道整復の歴史的経緯

 柔道整復は、「接骨師」または「ほねつぎ」と呼ばれ、骨折・脱臼・捻挫・打撲・挫傷などの施術者として、永い歴史を持って今日に至っている。  その接骨の歴史を遡ると、武道の柔術へとたどり着く。中世末期の戦乱時代の武道には表裏一体の殺法と活法があり、その両道を極めたものが名人・達人と言われる人であった。  活法とは、仮死者に施す救急法や、骨折・脱臼などの手当や治療などが含まれている。  殺法は、武術の殺戮手段等に用いられていたが、時代の変遷とともにその一部は保健と精神修養の手段として、スポーツの中に組み入れられながら行われている。一方、活法医療の一部柔道整復術として現在の発展に至っている。

1) 古代の接骨術  各種の古文書の中でも、養老律令(718年)に骨や関節の損傷に関する記載がされている。更に、平安時代の古書にも「円融天皇の御代に接骨博士数名あり、各自特有の手法を持って整骨し……」とこの辺りで接骨という名称が記載されている。最古の医学書「医心方」(982年丹波康頼)は、骨・関節に関する損傷が詳細に記述され、時の天皇家より典薬頭半井家に賜った門外不出の秘本として伝えられていている。

2) 江戸時代の接骨術  当時の接骨書は高志鳳翼の「骨継療治重宝記」(1746年)が代表される。この頃は、中国医学に基づく“ほねつぎ”(高志鳳翼)と西洋医学に基づく華岡流整骨術(華岡青州)と、我が国独特な“骨継療治”(各務文庫・星野良悦ら)が、その境地を開いて活躍していた。更に、各務文献の著書「整骨撥乱」「整骨新書」などは接骨の分野が確立された貴重な著とされている。  江戸中期の1720年には、八代将軍吉宗の洋書禁制が緩和され、西洋文化の移入と共に、柔術活法に由来する接骨術も日本各地にてそれぞれの流派が独自の道を歩み続けた。  ちょうどこの頃、二宮彦可や磯又右衛門などの柔術家らも西洋外科の包帯法を応用した技術を生み出している。  江戸時代末期に到っては漢方医・蘭学・接骨医らによる医業の全盛から、中でも外科・接骨術は明治維新により欧米万能の医制改革が行われるにいたって多難な道程を歩み出す。

3) 明治時代の接骨術  明治7(1874)年医制改革が行われる。永きに亘って民衆に親しまれながら伝統を護り伝えてきた漢方医や接骨医の身分が確定した。さらに、明治27(1894)年太政官令によって「従来の接骨業」は廃止の憂き目となる。当時、秘かに骨・関節障害の施術は「ほねつぎ」の手によって行われていた。  明治45(1912)年柔術諸流派の中でも楊心流を軸として神之神道流、そしてこの両派を基礎として成立した天神真楊流の三流に属する柔道整骨家の整骨術復活のための公認運動が始まった。

第2節 柔道整復師法制度の推移

1) 柔道整復術の公認  接骨術公認請願運動は、明治18(1885)年、時の内務卿山県有朋の名で発せられた「入歯歯抜口中療治接骨取締方」により、接骨の禁止令が出された時から始まった。  その頃、同じ取締方中にあった「入歯口中療治」の人達は、全国に呼びかけ、会を組織して一致団結して議会に請願し、学校制度を確立し立法化により専門医としての歯科医師の確立をみた。  明治44(1911)年になって、鍼灸・按摩も営業を公認され接骨術だけが取り残されるという不運に見舞われた。その後も迂往曲折があり、こうした背景のもとに大正元(1912)年より公認運動はますます燃焼して同志の大同団結を叫び、大正2(1913)年柔道接骨術公認期成会が発足した。  大正3(1914)年「柔道接骨術公認に関する請願書」を議会に提出したが、確たる反応が示されず推移した。この報告書に記載される会員の資質の向上と請願運動の機運の醸成など、内部充実を図るその目的の内容は「講習会通牒」などで明らかにされている。その講習会によって内部充実を図ることが、いかに公認請願運動に大事なことであるかを切々と訴えている。その結果、請願運動や講習会等の内部充実が実を結び、柔道接骨術公認問題は漸く内務省当局を動かし発展していった。そして遂に中央衛生会で採択され、按摩術営業取締規則を改正する「内務省令」により、柔道整復術として公認されるに至った。

 @ 内務省令の大要  柔道接骨術公認請願運動は、はじめ法案として請願したものであったが、議会へ幾度か上程してもその都度委員会付託となって、衆議院は通過しても貴族院で握りつぶされ、遂に法案としての上程は断念せざるを得ず、内務省令の按摩術営業取締規則のいわゆる省令の改正という形で実現した。

 内務省令

内務省令第10号 按摩営業取締規則左ノ通之ヲ定ム 明治44(1911)年8月14日
        内務大臣法学博士 男爵 平田 東助
按摩営業取締規則
第1条〜第4条   (省略)
第5条 営業者ハ何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハズ、流派名、又ハ卒業シタル学校、講習所ノ名称、若ハ修業ノ証明ヲ与ヘタル教師ノ氏名ヲ除ク外、業務上、其ノ技能、施術方法、又ハ経歴ニ関スル広告ヲ為スコトヲ得ズ。
第6条〜第9条   (省略)
第10条 免許鑑札ヲ受ケズシテ営業ヲ為シ、若ハ停止中営業ヲ為シタル者、又ハ第5条ニ違背シタル者ハ5拾円以下ノ罰金ニ処ス。
第11条〜付則    (省略)

A 内務省令の改正  大正9(1920)年、柔道接骨術公認期成会として請願してきた運動も、内務省令の按摩術営業取締規則の改正で、柔道整復師としての身分が確定した。

内務省令第9号 明治44(1911)年内務省令第10号按摩術営業取締規則中左ノ通リ改正ス
大正9(1920)年4月21日 内務大臣 床次 竹二郎
第5条ノ次ニ左ノ2条ヲ加フ。
第5条ノ2 営業者ハ脱臼又ハ骨折患部ニ施術ヲ為スコトヲ得ズ。但シ医師ノ同意ヲ得タル病者ニ就テハ此ノ限リニ在ラズ。
第5条ノ3 地方長官ノ指定シタル学校若ハ講習所ニ於イテ「マッサージ」術ヲ修業シ又ハ「マッサージ」術ノ試験ニ合格シ免許      鑑札ヲ受ケタルモノニ非ザレバ「マッサージ」術ヲ標榜スルコトヲ得ズ。
第10条中「第5条」ノ下ニ「第5条ノ2、第5条ノ3」ヲ加フ。
付則ニ左一項ヲ加フ。
      本令ノ規定ハ柔道ノ教授ヲ為ス者ニ於テ打撲、捻挫、脱臼及骨折ニ対シテ行フ柔道整復術ニ之ヲ準用ス。

B 柔道整復師試験  大正9(1920)年10月、第1回柔道整復師試験が東京の警視庁において初日筆記試験、2日目実技及び口頭試問が実施され、全国で163名が合格し、大正10(1921)年1月15日付、東京府警視庁公報第1360号に合格者氏名が発表された。

C 大日本柔道整復術同志会の発足  第1回柔道整復師試験合格者によって大日本柔道整復術同志会が結成された。これが社団法人日本柔道整復師会の第一歩である。  大日本柔道整復術同志会の内容は、会の規則(抄)並びに規定、及び細則によってその大略が明らかにされている。  大正11(1922)年4月、大日本柔道整復術同志会が、新たに大日本柔道整復師会(初代会長・市川欽)と改称して正式に発足した。この会は全国の柔道整復師によって組織するものであり、柔道整復師の進歩発展を図り、会員相互の団結及び親交を深めることを目的とした。

D 定期総会の開催  第2回大日本柔道整復師会定期総会   大正12(1923)年4月 赤坂区一条公私邸尚武館新築大道場(会長・市川欽)  第3回大日本柔道整復師会定期総会   大正13(1924)年6月 上野池之端東仙閣  第4回大日本柔道整復師会定期総会   大正14(1925)年5月 上野池之端東仙閣  第5回大日本柔道整復師会定期総会   大正15(1926)年6月 上野池之端東仙閣(会長・井上縫太郎)  第6回大日本柔道整復師会定期総会   昭和2(1927)年5月 萩原七郎私邸  第7回大日本柔道整復師会定期総会   昭和3(1928)年4月 神田錦町松本亭(会長・松井百太郎)   昭和4(1929)年、この頃の大日本柔道整復師会の活動は流動的で、東京を中心とした運営は全国をまとめるには、なお幾多の問題を抱えていた。いみじくも東京府柔道整復師会の内部にも内輪の争いが発生、2つの会に分裂するにいたったことで大日本柔道整復師会も大きな影響を受けた。   昭和5(1930)年4月、東京大学医学部整形外科出身、金井良太郎博士を会長として迎え、名称を「全日本柔道整復師会」と改め、以後、新会長の全面的な協力を得て体制を確立した。   昭和10(1935)年、東京で大日本柔道整復師連合大会が開催され、全国の力を集結して柔道整復師規則改正の請願委員会を設置して請願運動を開始したが、なお、同年4月全日本柔道整復師会の陣容変革で金井良太郎会長が辞任し、その後約3年間会長不在のまま会の運営が行われていた。   昭和13(1938)年、単行法請願運動が燃焼する。従来より柔道整復師が按摩術営業取締規則から分離独立するための単行法制定運動が、大正9(1920)年4月の柔道整復術公認の日から大正年間いろいろなかたちで行われてきた。この年、藤生安太郎衆議院議員の提案で、第73議会に提出者及び賛成者129名の国会議員の署名を添えて上程された。結果として、内務省令の改正で柔道整復師の身分は確定した。   昭和16(1941)年、単行法請願運動はさらに続けられ、関東・関西が一丸となって行われたその足跡は55名の署名入りの貴重な請願書が物語っている。   同年4月、一松定吉代議士が推されて会長に就任し会員数1,625名となる。   昭和10(1935)年代第二次世界大戦勃発により以後多くの柔道整復師が軍人として世界各地に散華していった。   昭和21(1946)年5月、全日本柔道整復師会一松定吉会長は第一次吉田内閣の逓信大臣就任に伴って辞任された名誉会長となり、後継者として小林大乗博士が就任した。   身分法制定の第一段階として、単独の省令を得た業界では、「日本接骨師会」と改め、本来の目的である単独法としての接骨師法の実現に傾注した猛運動の結果は、議会に提出された接骨師法案が、両院ともほぼ全員の賛成支持を得るにいたったものの、占領下のためマッカーサー司令部の了解を得ることが出来ず、その法案は上程不能のまま見送られてしまった。   昭和22(1947)年12月、新憲法発布でそれまでの各省令は失効することになり、せっかく独立した柔道整復術営業取締規則も廃止の憂き目を見た。しかも当時のGHQの意向は、柔道整復術に対し好意的なものではなく、むしろ廃止を考えている状況であった。我々柔整業界は、希望する身分法制定どころか既得権の消滅を案じられた。これに対し、一松厚生大臣、小野厚生委員長の特別な協力を仰ぎGHQの了解を得たものが「あん摩・はり・きゅう、柔道整復術営業法」であり12月20日制定公布された。

  あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法特例法案
第1条 都道府県知事はあん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法(昭和22年法律第217号)施行の際、現に同法付則第16条に掲げる法令により試験を受ける資格を有していた者でやむを得ない理由により受けることが出来なかった者に対しては昭和23(1948)年11月30日の試験を受けることが出来る。
第2条 都道府県知事は前条の試験に合格した者に対しては、あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法第2条の規定にかかわらず昭和23年12月31日までそれぞれの免│ │許を与えることが出来る。付則、この法律は公布の日からこれを施行する。

昭和23(1948)年5月、総会の席で小林大乗会長より辞任届が提出された。   
昭和25(1950)年、業界が分裂するという状況に直面した。   金井良太郎氏を再び会長に選び新たに発足した「日本柔道整復師会」と、小林大乗氏が辞任し、一松定吉氏を会長とする「日本接骨師会」の二つの組織が、それぞれ独自の活動を展開した。この影響は東京都にも及び、「東京都柔道整復師会」に対し「中央接骨師会」が結成されるに及んだ。   昭和28(1953)年10月、3年間の永い分裂騒動も、「日本柔道整復師会」と「日本接骨師会」が厚生省の斡旋で和解し、新しく全日本柔道整復師会として発足した。   全国一本化が実現した業界では、社団設立の認可を得て、「社団法人日本柔道整復師会」となり、再び会長に金井良太郎氏が推薦され就任した。

E 柔道整復師法の請願  柔道整復師の永年にわたる宿願であった単行法は、昭和42(1967)年の定時総会において単行法請願運動について決議された。  同年11月、柔道整復師法制定請願実行委員会(委員長・金沢利三郎)を設置し、発足したその日から鋭意運動が展開された。

 請願の主旨
請願事項
 柔道整復師に関する規正を「あん摩マッサージ師、はり師、きゅう師及び柔道整復師などに関する法律」より分離して、単独の法律を制定されたい。その要望理由に5項目が盛り込まれている。

昭和43(1968)年2月2日に請願書採択となり、社会労働委員会付託となった。   
自民党においては政調会社会労働会等で、小沢辰男氏の趣旨説明によって審議され、満場一致賛成、4月24日自民党総務会で賛成。   
5月14日、第五十八国会衆議院社会労働委員会付託となった。   
第五十九国会は短期の臨時国会であったため、取り上げるまでにいたらず、第六十国会に持ち込まれた。   昭和44(1969)年7月、第六十一国会は衆議院社会労働委員会において、柔道整復師法請願実行委員長金沢利三郎が、柔道整復師法請願の趣旨説明を行った。
第六十一国会、第六十二国会とも廃案の憂き目となる。

F 柔道整復師法の成立
昭和45(1970)年3月17日、衆議院を無事通過し、3月31日の午後1時参議院社会労働委員会を通過、同夜本会議に上程され、佐野委員長の提案理由説明で、全会一致で可決成立した。
昭和45(1970)年7月23日、医発第858号をもって厚生省医務局長名で各都道府県知事宛に通知を発した。

  柔道整復師法施行令(昭和45年7月9日政令第217号)
内閣は、柔道整復師法(昭和45年法律第19号)第9条及び第14条の規定に基づき、並びに同法を実施するため、この政令を制定する。

G 柔道整復師法の一部改正   昭和63(1988)年6月、法の一部改正が行われ、その主たる内容は、修学三年制、国家試験、大臣免許の三点であり、試験実施に関する事務および登録を行う柔道整復研修試験財団が設立された。

第3節 柔道整復の現状

 近代医科学が、歳月と共に多義に亘ってその領域を拡大し進歩発展していく中にあって、柔道整復師はどの分野を担当しどのような位置付けを図るべきか、日常業務を通しても個々の資質の向上と組織力の強化を図ることが問われている。

1) 将来、柔道整復業務に課せられる問題  我が国の医療業務に携わる者の中で、柔道整復師が法制化され、その位置づけが「医業類似行為者」として取り扱われている現状、その解決は、「あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう・柔道整復等審議会」において医業技術の専門家からなる調査班の検討課題とされている。  21世紀には人口の老齢化に伴って、健康に関した国民意識は目を見張る勢いにある。ますます増大し多様化する医療需要の中で、人体において骨・関節・筋肉・軟部組織の機能的変性疾患や四肢における機能障害を余儀なくされる疾病者などの在宅を中心とした治療、運動機能回復訓練にいたる一貫した医療体系の確立には医療行為者と医業類似行為者を含め相互連携を強め地域の特性に応じたそれぞれの有機的な地域医療計画策定の検討も行われている。  また昭和62(1987)年には以下のような柔道整復師倫理綱領が、社団法人日本柔道整復師会の鳥居良夫・福田稔夫・金城孝治・岩佐之・市毛冨士穂・堀越良一・我部正彦、社団法人全国柔道整復学校協会の米田一平・桜井康司・池添祐彬・牧内與吉等委員の起案によって制定された。

柔道整復師倫理綱領  国民医療の一端として柔道整復術は、国民大衆に広く受け入れられ、民族医学として伝承してきたところであるが、限りない未来へ連綿として更に継承発展すべく、倫理綱領を定めるものとする。  ここに柔道整復師は、その名誉を重んじ、倫理綱領の崇高な理念と、目的達成に全力を傾注することを誓うものである。

1.柔道整復師の職務に誇りと責任をもち、仁慈の心を以て人類への奉仕に生涯を貫く。

2.日本古来の柔道精神を涵養し、国民の規範となるべく人格の陶冶に努める。

3.相互に尊敬と協力に努め、分をわきまえ法を守り、業務を遂行する。

4.学問を尊重し技術の向上に努めると共に、患者に対して常に真摯な態度と誠意を以て接する。

5.業務上知りえた秘密を厳守すると共に、人種、信条、性別、社会的地位などにかかわらず患者の回復に全力を尽くす。

                      (日整 昭和62年6月14日制定)